The Fiery Angel op.37 / Sergei Prokofiev

実は今年に入ってから、クラシックを聴く比率が非常に高かったりする。リモートワークのBGMとしてシンセ一台と数個のエフェクターで単一ループを生成してアンビエント的に流しているうち、ドラムパターンの無い曲を段々と志向してきた、というしょぼい理由が発端である。トマス・ルイス・デ・ヴィクトリアのミサ集に始まり、カラヤンとベルリンフィルの名作・シェーンベルク『浄められた夜/ペレアスとメリザンド』、ショスタコーヴィチ『ヴァイオリン・ソナタ/ヴィオラ・ソナタ(室内オーケストラ編曲版)』とバーンスタイン版『交響曲第14番』、ストラヴィンスキー『春の祭典』ピアノデュオ版、果てはロストロポーヴィチ版プロコフィエフ交響曲全集などを買い込んで、暇があれば何もせずにだらだらと聴いたりしている。

私はクラシックに於てはとりわけロシア系の作曲家を愛好している。共産圏に於ける民族主義的偉容の具体化としての芸術の栄光と栄誉、といった社会主義リアリズムの評価軸を前提としたあの独特の鮮烈さと大仰さは、二〇世紀ロシア系作曲家にしか生み出せないものであった。ワーグナーのような芸術至上の立場からだけでは決して出て来なかったであろう傾向を、皮肉にも芸術に全面介入してきた政治思想が変異的に推し進めたと言える。ショスタコーヴィチ然り、ストラヴィンスキー然り、或いはムソルグスキー然り。モノフォニーの時代から累々と積み重ねられてきた西洋的な音楽技法だけに留まらず、印象派の時代から現代音楽──新ウィーン楽派を嚆矢とした──の時代へ移行している正にその時期、楽器編成のセオリーの脱却や非調性の取り込みへの追求、リズムへの着目、芸術的な意図を込めての極めて高度且つ晦渋な構築や引用等々、各人が楽神に仕える者として当時先進的だったアプローチの数々と対峙し結晶化させていった幾つもの事例が、ロシア産の音楽には確かに内在する。

その中でも、目下の再発見、と言うかマイブームはプロコフィエフだ。プロコフィエフの力強さは群を抜く。超絶技巧ピアニスト兼作曲家のみならず、カフカのような短編小説も書いた才人のくせして、敢えてステータスに上乗せするポイント配分をパンチ力だけに全て振り切ったかのようなパワータイプ作曲家だ。殊フルオケが絡むと、その余りの力強さには悪意すら感じられる。実際、作曲家当人も割と喧嘩っ早かったようで妙に納得も出来る。
同時代の作曲家ではストラヴィンスキーも極めて近いポジションではあるし世間的な評価は高いが、プロコフィエフは──ディアギレフの描くフォービズム然としたバレエに直結せずとも──豊潤なハーモニーを伴う楽曲として完成されていながら尚比類無きパンチ力、という点で一線を画する(と少なくとも私は感じる)。勿論プロコフィエフもディアギレフからの委嘱で少なからずバレエ楽曲を書いてはいるのだが、そちらでは例えば『鋼鉄の歩み』や『ロミオとジュリエット』のように、バレエ特有の優美な躍動やオスティナート(反復)にフォーカスしているが如くであり、寧ろ悪意のパンチ力は控えめだ。しかし例えば映画界からの委嘱となる『アレクサンドル・ネフスキー』は平常運転だ。色々あった間柄のディアギレフに対してのみ極めて真摯か、或いはナイーヴだったのかもしれない。

力で圧倒するタイプの楽曲は上記の他『スキタイ組曲』『交響曲第2番』『ピアノ協奏曲第2番』等々数多く存在するものの、中でも『炎の天使』は、原作とのシナジーに因ってその力強さが邪悪さにまで到達・昇華されてしまった最たる作品だろう。

 

『炎の天使』はワレリー・ブリューソフによる1908年作の小説が原作となっている。

ルプレヒトという騎士が宿泊先でレナータという若い乙女に会い一目惚れをする。炎の天使と幼少期を共に過ごした(というある種の幻想を持つ)レナータは、風貌がその天使とよく似たハインリヒ伯爵を探しているとルプレヒトに話し、二人でケルンへ向かう。
伯爵を見つけ出すものの、拒絶され魔女扱いされたレナータはルプレヒトに伯爵との決闘をけしかけ、惚れた弱みで承諾したルプレヒトは敗北し大怪我を負う。レナータは看病する過程でルプレヒトに心を開いていく傍ら、伯爵のことを一向に忘れられず、自傷の末にルプレヒトの許から逃亡する。たまたまその様子を現場で見ていたファウストとメフィストフェレスの一行はルプレヒトを宥め、レナータの捜索に同行するようになる。
その後、レナータは修道院で庇護を受けて暮らしていたが、日毎悪霊に精神を蝕まれていく。他の修道女達への影響も看過出来なくなった修道院長は異端尋問官を呼んでレナータに対する宗教裁判を起こし、火刑判決を下す。駆け付けたルプレヒトは間に合わず、メフィストフェレスも救出を阻止する。これを契機にレナータは炎の天使に支配され、召喚された多数の悪霊が修道女達を不浄と罪の只中に堕する。

粗筋をざっと書き出す限りでは、ルネサンス期のドイツを舞台とした悪霊憑きの女性が齎すオカルティックな騒乱、という顛末になる。何処にロシア文学的な評価ポイントがあるのか全然伝わらない訳だが、これが作者の実際の私情を物語化したものだとなると途端に一変する。ルプレヒトはブリューソフ自身、レナータは当時ブリューソフに身の上相談をしていたニーナ・ペトロフスカヤという女性、ハインリヒ伯爵はその女性が当時入れ込んでいたアンドレイ・ベールイ──この三者で織り成す三角関係の暗喩であり、人妻でありながら関わってくる男性陣と片っ端から関係してしまい混乱を呼び起こすその境界例の女性をレナータの物語として仕立てたのが本作だ、と言われている。
また一見唐突にも見える『ファウスト』登場人物の借用に関しては、ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスの三者との多重構造にする為の装置とされている(但しレナータは、グレートヒェンが死後ファウストの魂を救うようにルプレヒトを救ったりはしない。自分に関わる幾人もの登場人物をナチュラルに騒乱へ陥れてしまうだけの呪詛である)。
コンテクストの面でも非常に面白く、ナボコフ『青白い炎』のようなそれを1900年代初頭に実践していたりするのだが、ここでは扠措く。

 

……とまあ、原作がそんな内容でもあるので、プロコフィエフの解釈に依りオペラ化されるにあたっても、間違いなくその悪辣さが根幹になった。第一幕こそオペラ的な様式美に沿った悲喜交々情感豊かな展開が続くが、第二幕後半からどんどん暗雲が立ち込め、クライマックスでは邪悪さが頂点に達して終幕となる。オペラ作品の大団円と言えば、“fiat justitia et pereat mundus(正義は成されよ、譬え世界が滅ぶとも)”を地で行く活劇か、愛の成就か、悲劇か、喜劇かで明快に締め括られるにも拘らずだ。
また面白いのが、内省的且つ教養と示唆に富んだ制作過程が特に見当たらない点にある──例えばショスタコーヴィチがマーラー『大地の歌』になぞらえた教え子のイニシャルEAEDA音型を繰り返しつつ自分のイニシャルDSCH音型と絡め『交響曲第10番』を自伝的に作り上げていた、等というような逸話は一切無い。そもそも原作があんな内情を主要人物に投影された前提であることすら知らずに初版を作り上げたぐらいだ(大分後で知ったらしい)。ついでに言うとクライマックスの描写も原作とは若干違い、レナータは死に因って炎の天使から開放されるという一応の決着まで描かれているのだが、プロコフィエフの翻案では、異端尋問官から正に火刑宣告を言い渡された瞬間で閉幕となる。
そうなると結局、「この邪悪さが素晴らしい」「もっとパンチ力を」的な観点で作った以外の理由が殆ど出て来ず、悪意にも似たこのプロコフィエフの強烈なパンチ力が練りに練り上げられてこの異形のオペラ作品として繰り出されたことになった、としか考えられない訳である。何て野郎だ。いいぞ

 

後年、オカルト且つ異形の内容により上演には漕ぎ着けられず、結局『炎の天使』の実演を見ることは叶わないだろうとプロコフィエフは判断した。そこで本作を原作と切り離した純然たる音楽作品として組み直し、『交響曲第3番』を作り上げた。こちらは発表の翌1929年に無事に演奏され、同じく邪悪なパンチ力で楽曲を作りがちな先輩ストラヴィンスキー(変拍子を入れるくせして自分では4拍子の指揮しか出来ない変な奴)からも絶賛されたりした。類は友を呼ぶ。出会った当初は『三つのオレンジへの恋』の評価を巡ってあわや殴り合いに発展しそうだった険悪な間柄のくせに。
プロコフィエフの交響曲は全部で7作品あり、何れもパンチ力は強めに設定されているのだが、第3番は元が元なだけに、矢張りそれらの中でも頭一つ抜きん出て強く、故に邪悪な印象に支配されている。しかも当人は『交響曲第3番』は自分の傑作の一つだと言い切っていたらしい。流石、その後あの悪名高いジダーノフ批判に晒されたにも拘らず平常運転を続けたぐらいには強い。やり過ぎて晩年は当局から脊髄反射的に不当なレッテルを貼られる羽目に陥ったぐらいには強い。二度の公開批判で心折れたショスタコーヴィチが希望を託した気持も良く判る。
何と言うか、クラシックの序列にたまたま含められてしまっているだけで、実はこの人は作品も人物像も含めてロックなのではなかろうか、と思えてならない。

 

最後に音源に就て少し触れる。私が拝聴したのは1991年ネーメ・ヤルヴィ指揮の1991年リリース・2005年再発グラモフォン盤だ。プロコフィエフの諸作品も含めた録音キャリアの多彩さと、打楽器に重点を置いた解釈で定評のある指揮者で、本作に関しても考え抜かれた配置により申し分の無い打楽器系の出音を確認出来る。但し弦の高域が充分出ていない。これは演奏よりもミックスの問題だと思われる。
プロコフィエフ信奉者たるワレリー・ゲルギエフが指揮したPHILIPS盤も存在していて、これは間を置かず偶然入手出来てしまったので併せて聴いた。何せゲルギエフなので、ヤルヴィの滑らかさとは対極的にあらゆるセクションのアタックが強い。収録は会場の反響や距離にも影響するので、こちらはヤルヴィのそれよりもかなり近い位置であろうと考えられる。総合的な好みとしては前者の空気感にやや傾く。
CDはそもそも目ぼしい音源がこれら2枚ぐらいしか存在しておらず、入手はなかなか難しい。また、全編ロシア語歌唱である上、剰え原作も過去日本語訳されて出版されたことすら無いので、全容を具体的に把握するにもハードルが高い作品の一つと言える。後者のPHILIPS盤に付属する全歌詞・英仏訳掲載208Pブックレットが(これでも)最も確保しやすい文献である。
また、このゲルギエフ指揮版と近年出ていたらしいNaxos版が映像作品としてリリースされているので、それを観るのも近道の一つではある。勿論日本語字幕は付いていない。(2022年追記:2021年にウィーンで上演された現代版が新たにリリースされている。)

譬えどんな作品であろうとオペラ全編なんぞ一生聴かないだろうと思い込んでいた節もあり、何がどう切っ掛けになるか判らないものだと心の片隅でしみじみ感じながら、ニ時間通して聴いた。歌詞が判るに越したことはないのだが、判らずとも概要を把握しているだけでも、聴覚に流れ込んでくる脚本と音楽のシナジーは大変に盛り上がるのだった。これもひとえにプロコフィエフの列車砲の如きパンチ力の為せる業だと思っている。Хорошо.

 

 

第二幕第ニ場冒頭の幕間・ネッテスハイムのアグリッパの研究室への転換、ヤルヴィ版。この時点でもう同時代の映画音楽も斯くやの邪悪さ満載。『交響曲第3番』では第4楽章冒頭に配置される。

第五幕最後、悪魔祓いの儀式を始めた筈が、マディエリ(炎の天使)に支配されたレナータを媒介として修道女達が次々と悪霊に取り憑かれて大混乱の内に舞台は終了する。音楽だけでも充分伝わる邪悪な終幕。『交響曲第3番』では第3楽章の終盤。

オペラ本編。なんと全編公開。指揮はゲルギエフ。

奇しくもこれを書いたタイミングで再演していたらしい。何故か第五幕最後だけの抜粋。

2018年にプロヴァンスで上演されたらしい、舞台を現代に置き換え、舞台装置をアパルトマンと精神病院での情景とした全編。大野和士指揮。古本屋のグロックはドラッグの売人だし、アグリッパに至ってはどう見てもラスプーチン。しかも増殖するし、後ろで白い衣装のモッズバンドが曲に合わせて弾き振りをしている様子がクセになる(と言うかアントラクト全般面白い)。

『炎の天使』を下敷きにした『交響曲第3番』。『アレクサンドル・ネフスキー』といい『スキタイ組曲』といい、悉くプロコフィエフのパンチ力にフォーカスさせるゲルギエフは流石だなとしか言えない。ゲルギエフも同様にパワータイプなので好き嫌いが結構分かれたりする訳だが、殊にオペラ作品で無いと「俺の解釈以外のことは割とどうでもいい」系の方針がやたら強かったりするのでまあそれはしょうがない。ただ第4楽章は些か速過ぎるきらいはある(ロストロポーヴィチ、小澤征爾、ムーティ、ヴェラー、シャイー、ゲルギエフ、オルソップを聴き比べたがロストロポーヴィチが個人的に最も良かった)。

一応誤解が無いようにフォローしておくが(今更)、本当にパンチ力だけに特化した作曲家という訳では無いことを附記しておく。例えばこの『キージェ中尉』の「ロマンス」は際立って美しい曲だ。アバド指揮版・歌無し。

 

 

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