The Ape Of Naples / Coil

ここ数年、Coilの権利関係者となっているDanny HydeやThighpaulsandraを介した過去Coil作品の復刻が不定期に続いている。元々当時からCoilが偉大なるマイノリティであったこと、またそれ故に少数限定生産が多く圧倒的にプレス数が少ないことが災いしてカタログの大半が廃盤扱いだった為、作品の入手が困難であったが、徐々に緩和されつつある。初期作は勿論、名作と崇められながらも数百枚限定だった『Musick To Play In The Dark』や、『Megalithomania!』のようなライヴ会場販売やメールオーダー限定だった音源ですら難なく手元で聴ける状況は、全く喜ばしいことである。
『The Ape Of Naples』は元々所持してはいるものの、今回の復刻にあたり未発表音源や蔵出しテイクを含めたディスク2枚組のDX版になったので改めて購入した。

 

『The Ape Of Naples』は昔から自分の中で言語化出来ない作品だった。
私が音楽を気に入る際の理由は、音楽的な構造や密度の妙であったり、或いは音楽的表現の幅が異常に広かったり、また単純にカタルシスを満喫出来るかどうか、に大概が収斂される。だが稀にそれらだけで表現する行為を憚るような、言語を介さず情感的に深く胸を打たれる他に無いような作品があり、これはその一つだった。同様の経験は他には例えばナイン・インチ・ネイルズの『THE FRAGILE』と『AND ALL THAT COULD HAVE BEEN: STILL』があるが、それらは要約すればオルタナティヴな表現を突き詰めた所にある個人の怨嗟や諦観や死の情景の拡大状態だと言える。当然、特定のアーティストや作品に対して人格傾向と音楽的傾向とが噛み合ってしまうような生活を送っていれば強烈にハマッてしまうのは明白であり、あくまで受け手の極私的な共鳴に過ぎないとも言える。
しかし『The Ape Of Naples』の喩えようもない静謐な悲哀は、受け手どころか急死したアーティスト自身の私的な面とは無縁でありながら、悼む第三者がそれを俯瞰的に構成した結果、何故か死者当人の声が死の嘆きや諦観の表現に直結する、という客観と主観の乱反射で出来たような構造で成立している、余りにも特異過ぎる状態なのだ。

無論、背景にある物語の影響から目を背けることは出来ない。これがジョン・バランスの遺作であり、実質的にジョン・バランスとピーター・クリストファーソンとしてのCoil最後のフルアルバムである、といった物語が基底にある事実は動かしようもない。故のクリストファーソンの喪失感で満たされている、と言えば大枠は伝わるのだろう。しかしその解釈は多少なりともCoilの歴史を知っていれば、曲解に近いと直ぐに判ることだ。

 

収録されている「Fire Of The Mind」「It's In My Blood (A.Y.O.R.)」「Heaven's Blade」「Cold Cell」「Amber Rain」は1992~1996年のセッションで既に存在し、1996年に一旦は『Backwards』として世に出かけた──スタジオデモの流出が原因となって当時リリースされず、2008年に再構築版の『The New Backwards』として、更にクリストファーソンの死後2015年になってから漸くオリジナル版がリリースされた──楽曲群であり、リアレンジにあたって多用されているバンドネオンやハーディ・ガーディやシロフォンは、バランスの死の数年前からCoilのライヴでは積極的に導入されていた。前作『Black Antlers』では既に本作と同系統の音が多用されている。特に「The Last Amethyst Deceiver」はその当時の「Amethyst Deceivers」のアレンジに最も近い(その後シンプルな2サイクルコード主体のアレンジに変更された)。「Teenage Lightning 2005」に至っては、1990年の『Love's Secret Domain』が初出である。
とは言え、『Backwards』版そのままではなく、本作に於て随分と音数を抜いた悲哀に満ちたアレンジと化したのも確かである。「It's In My Blood (A.Y.O.R.)」と「Heaven's Blade」は半分近くBPMを落としてリズムを最低限まで削ぎ落としているし、「Fire Of The Mind」は当時のNINを彷彿とさせる(仕上げをNIN所有のNothing Studioで行っていたことも関わるだろうか)歪んだリードやサンプルを主体としたオルタナ+中近東エスノだったオリジナルに対して、バンドネオンを前面に出した上で更にコーラスサンプルを加えた神秘的なアレンジに変えている。バランスは豊かな声で「Does death come alone or with eager reinforcements? / Holy, Holy ...」と歌う。

しかもとどめは「Going Up」だ。最終楽曲として最早悲哀の域を超えている。オーボエ、ヴィオラ、チェロ、シロフォンの変則的なカルテットが葬送のような主題を延々と奏で続け、リンゼイ・ケンプを師とする舞台俳優フランソワ・テストリーのカウンターテナーが殊更それに拍車を掛ける。
しかしこれも矢張りバランスの死後に本作の為に作られた楽曲ではなく、ダブリンでのCoil最後のライヴで実際に演奏されている。元々完成された状態で存在していた以上、現実との奇妙な合致に因って結果的に哀しみに満ち溢れた楽曲となってしまっただけの話である。
更に踏み込んで言えば、これはカヴァー楽曲である。歌詞の99%と一部のサンプリングは1970年代にBBCで放映されていたコメディー『Are you being served?』のテーマ曲である(これはこれでモンド感やテープループが秀逸なので一聴をお勧めする)。従って、一筋の光輝から降臨した天使の導きであるかのような存在感を以て歌われる内容は「1Fは化粧品と文具売り場云々、上へ参ります、2Fは紳士服売り場云々、上へ参ります、3Fは旅行用品と寝具とレストラン」という実にふざけたものであって、そこには悲哀も何もあったものではない。例えば曾て肛門を螺旋階段に喩えたような、Coilならではの実に捻くれた諧謔と言える。

終止の無いコード循環が美しい「The Last Amethyst Deceiver」にしても、1998年の『Autumn Equinox』EPが初出であるし、その後載せられた歌詞にしても、チベットの鳥葬を介した転生がテーマかと見せかけて実はキノコの歌だ。マジックマッシュルームとかドラッグでそういう脈絡の幻覚を見たのかどうかは扠措き、バランス本人が実際にそう発言している。大体に於て、作品名自体が『ナポリの猿』という、apeとnapleの韻を踏んだ駄洒落でしかないのだ。

 

ここまでの経緯を鑑みれば、『The Ape Of Naples』をクリストファーソン一人の喪失感とバランスへの哀悼だけで括るには些か無理があると頷けるだろう。若しバランスが不慮の死を遂げていなくとも、これに似た姿の作品が世に出る可能性は幾らでもあったのだから。
だからこそ、この作品を支配する大いなる悲哀を構成するものは、クリストファーソンが抱いていたであろう喪失感でありこそすれ、死者に対する、或いは死者自身に依る言及ではあり得ない。全ての死者に関わる要素は後付けに過ぎない。従ってクリストファーソンが曾てのバランスを回顧すると共に、その死の物語を主観から切り離して音響的に綴る行為に心を砕いた結果が本作であると捉えるべきである。死者など元々存在していなかった地点から積み重ねられてきた成り立ちから、最終作品の体裁を借りてクリストファーソンが(バランスならやるだろうという想定の上で)仕掛けたCoil最後の諧謔と言うか一種の騙しの手口であった、と解釈するのが本作の正答に近いと考えられる。
神は細部に宿る。エクスペリメンタルな方針を軸としていたCoilの音楽とその歴史が正にそうであったように、聴き流せば単純で味気無く直感的な理解を得にくい音楽が、実は音響やテクスチャーの細かな粒度まで聴感を潜らせていかなければ構築の妙やサウンドスケープの広大さに辿り着けない高密度な音楽であった、というケースは多々ある。作品全体の受け取り方としても同様に、背景にある判り易い物語だけで音楽の全てを解釈しようとするのは全く狭い了見であり、本質からは離れてしまう。作品そのものが本来内包している多層構造を事実や論拠に基づいて浮き彫りにさせた上で初めて本来的な鑑賞や論評に浸り得る。此処でそう改めて認識せざるを得ない。
(芸術とは我々受け手の知性を試すものである。そして試してくる程の構築を内在させる音楽であればそれは芸術だと言えよう。芸術至上主義と云う訳では無いが、少なくとも目下人間にしか到達し得ない知性と教養の抽象的な総体が芸術である以上、作品に対して必ず一度はそのように相対するのが受け手としての嗜みと言えよう。)

──それなのに、この喩えようもない静謐な悲哀だ。これは一体何なのだ。

残された儘だった未完の楽曲群を、当時の最新形のCoilのイディオムに合わせて再構築する行為。それは柩へ一緒に入れるメモラビリアのようではあっただろうとは想像する。そうした類の情緒は制作上自然なものだ。それを踏まえたとしてもだ、『Backwards』当時は──作られた楽曲の大半が死にまつわる情景であろうと──全然そうでなかったにも拘らず、『The Ape Of Naples』の形を成した途端、何故か死者当人の声として死の嘆きや諦観の表現に直結するという状態が成立してしまっているのだ。それらの客観と主観の乱反射で出来たような構造が完成され、人格が希薄化し非属人化された只の「悲哀」という概念だけが渺茫とした構造内に遍く漂っているような、実に不思議な印象を否応無く伝えてくる。これを、これ以上、どのように表現したら良いのか。

2005年のリリース当時では余りにも情報が無く、到底無理な話であった。仮に本作の日本盤が当時出たとして、それに付随するライナーノーツですらも誤謬に満ちた不誠実な内容になっただろう。ライターでも無い私が言語化出来なかったのも宜なるかな、と言い訳は出来る。証言や状況証拠を可能な限り正確に辿れる今の世だからこそ、この程度迄は本作に関する事実と印象を明白に出来る。
それでも尚結局、こうした現実との奇妙な合致を経た上でのこの余りに満ち溢れた静かな悲哀は一体何なのか、を、未だに私は明確に言語化することが出来ないでいる。事実を踏まえて色々記述してはみたが、それでも現時点で言及可能なのはこの程度であり、実際の印象としてはもっと深い。当初からCoilとは不可分であったLGBTの観点を持ち込んだとしても、あのCoil界隈特有の閉じられた園でのみ発生し得る音楽かと言えばそうでもない。

この一種独特の悲哀は何なのか、その源流は一体何処に在ったのか。単なる結果論では片付けられない、今以て余りにも困難な問題であるのだ。

 

 

 

Pitchforkによる『The Ape Of Naples』レビュー
https://pitchfork.com/reviews/albums/1826-the-ape-of-naples/

 

 

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