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Zamia Lehmanni: Songs Of Byzantine Flowers / SPK

SPKの1986年作『Zamia Lehmanni』のリマスター盤がリリースされた。それまでSPKがSPKたりえたノイズ/インダストリアルやEBMから完全に乖離し、グレアム・レヴェル個人のプロジェクトとしてのその後の方向性を示した作品だ。端的に表現すれば、民族音楽のコンテクストに忠実なゴシック・ヴァンゲリス、となるが、民族音楽ともアンビエントともつかない風体は間違い無くノイズ/インダストリアルのオリジネイターが醸し出すイリーガルな芳香に包まれており、噫矢張りその文脈で語り継がれるべきアルバムなのだ、と否応無く納得させられる。

CDにはグレアム自身のライナーノーツが記載されていたので、例によって勝手翻訳する。現代思想シーンに於ける80年代ポストモダン真っ只中の時期に作られただけあり、文脈の難解さは英語圏独特の言い回しどころではなかった。しかもグレアムは勿論ドゥルーズ=ガタリが特に(翻訳に次ぐ翻訳になる上、そもそもこれは現代哲学の学者が頭を抱えながら翻訳するような内容であって素人がやることでは無い)。若い時分に構造主義や臨床心理の周辺を多少齧っていなかったら即座に抛り出すような文面であった。尤もグレアムの書いた文章が一見博識であるようで実はちっともまとまりがない、という要因も大いにあったりはするのだが。従って訳注も随分書き加えた。一部誤解もあるだろうが、その点は脳内補完しながら追って頂きたい。

 


 

『Zamia Lehmanni』は3番目の(そして最後の)SPKの核となるアルバムであり、初のソロプロジェクトだった。 『Information Overload Unit』がその後の探究の為の余地を作り、『Leichenschrei』の環境音的パーカッションの氾濫が変異的なサウンドコラージュを打ち立てた後、「器官なき身体」は完全に骨抜きになった。 その後SPKはどうなったのか?

SPKの芸術的実践の多くは即時的な状況と私独自のアイデアによって運用されていたが、翻るに、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリによる著作『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』によって概説された様式を無意識の内に解釈していたに過ぎなかった。ドゥルーズ=ガタリは「スキゾ的進化※1」の基礎として、アントナン・アルトーが1947年に言及した「器官なき身体」の概念を大きく哲学的展開させていた。

ドゥルーズ=ガタリは『千のプラトー』で「遊牧民」への挑戦を定めており、それは私の出自であるニュージーランドに於けるタブラ・ラサ※2の関係性とよく似ていた。
彼らは「器官なき身体※3」を三種類に区別した:癌化、空虚、完全。癌化した「器官なき身体」とは、自己同一性パターンが無限に繰り返されるパターンに捕らわれている。これはSPKから見た従来の音楽のことだ。

空虚な「器官なき身体」とは『アンチ・オイディプス』の「器官なき身体」であり、完全に脱器官化されていない為「緊張病性」とも呼ばれる。全ての流れは自由に過ぎり、停滞も方向性も無い。どの様な欲望の形態でさえもそこから生み出せる故に、空虚な身体は非生産的※4である。これは私が以前のSPKでのアウトプットで到達した地点である。私は既にインダストリアル・ミュージックが形骸化しつつあり、根本的に新しい領域たる「ポスト・インダストリアル※5」に取り入れる必要があると感じていた。

完全な「器官なき身体」とは生産的な概念ではあるが、その構造は固定化されない。これに関するドゥルーズ=ガタリの記述はこうだ。
「地層※6に入り込み、地層が提議してくる契機を検討し、地層上にある有利点や脱領土化※7の運動位置を見出し、逃走線※8を可能にし、それらを遍く体験し、方々で流動の諸連接を生成し、断片毎に強度の連続性を試行し、常に新たな分譲された地平を獲得する。逃走線の解放に成功した地層との精細な関係性を経て、器官なき身体の連続的な強度の喚起、通過、逃走といった共役流動を引き起こす。」※9(Mille Plateaux, 1980/1987, p.161)

Lodge yourself on a stratum, experiment with the opportunities it offers, find an advantageous place on it, find potential movements of deterritorialization, possible lines of flight, experience them, produce flow conjunctions here and there, try out continua of intensities segment by segment, have a small plot of new land at all times. It is through a meticulous relation with the strata that one succeeds in freeing lines of flight, causing conjugated flows to pass and escape and bringing forth continuous intensities for a BWO. (Mille Plateaux, 1980/1987, p.161)

 

しかし、これでは本作の真意について何も説明したことにはならない。

私は当時ロンドン在住で、図書館を訪れる習慣を続けていた──これはインターネットでの検索が一般的になる10年前のことだ。私とシーナン※10は、インスピレーションに満ちた民族音楽のレコードのコレクションを借りて拝聴することに多くの時間を費やした。旅にもよく出掛けた。私達は行く先々で録音し、楽器を集め、作曲のアイデアをスケッチした。 最終的に最初のサンプラー/シーケンサーであるFairlight CMI※11に30000ドルを支払うまで、私達はこれらの構造化を実現出来なかった。

当時私は、ポストモダンの最も注目すべき特徴であるかも知れない、巨大な異文化が肥沃化する時代の始まりを感じていた。ビザンティウム※12は、貿易、図書館、そしてその後成立するインターネットなど、あらゆる場所から情報や資料に突然アクセス可能になった状況に関する有機的なメタファーとなった。音楽的にはアントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアに相当し、J.G.バラード『沈んだ世界』でロンドンを再生した熱帯の葡萄と同じように、アール・ヌーヴォーが未来の在り方として再定義された。

本作へのインスピレーションに関してはその他、19世紀の自然主義との決別とモダニズムの誕生という、芸術に於ける「認識論的切断※13」(ガストン・バシュラール/ミシェル・フーコー)前段階からも受けている。とりわけ、ジョリス=カルル・ユイスマンス『さかしま』(Joris-Karl Huysmans:À rebours, 1884)に於ける文化的レファレンス※14の混淆とディテールの飽和した文体にも。今日のユイスマンスの解釈については、社会からの孤立によって実存的な自制心を獲得しようとする主人公の描写とは、病原菌説のブレイクスルーが19世紀後半に蔓延していた集団自律の欠乏に与したことを現象学的に表現したもの※15、と論じられている。
この解釈は、20世紀後半に発見されたウィルスの遺伝子侵入、mRNAスプライシング、突然変異(Jens Lohfert Jorgensen: Literature and Medicine, Johns Hopkins University Press, Volume 31, Number 1, Spring 2013)についての私やSPKの考えとよく合っている。

ボードレールの最も有名な抒情詩『悪の華』(Les Fleurs du Mal, 1857)もまた多大な影響を与えてくれた。『悪の華』は、19世紀半ばに急速に工業化が進んだ当時のパリに於ける美の変化を表現したものである。ボードレールは「現代性(modernité)」という言葉を生み出し、都会の大都市での生活の儚く儚い経験を表現したと言われている。

私は彼らの昏く美しいインスピレーションに感謝している。

『Zamia Lehmanni』は約35年ぶりの再リリースを迎えた。私にとっては古めかしく響くであろう故、敢えて聴き直したりはしない。しかし、今や(特にサウンドトラックとして)すっかり遍在するようになったこの類の音楽は、『Zamia Lehmanni』の当時のリリース以前には存在しなかったのだ。

回顧
グレアム・レヴェル
2019年5月

 

 

※1: schizorevolutionary. 日本では単にスキゾと呼ばれる。対応語はパラノ。
※2: tabula rasa. 白紙の記述板。観念や知性は外部刺激つまり経験によって獲得され「白紙」に記述されていくという経験主義的な表現で使われる。
※3: corps sans organes / BWO: body without organs. 器官なき身体とは、明文化・定義された対象を屡々情動や行動に結び付いた装置の概念として示される「機械」に対して、対になる明文化されない未分化な対象を示すもの。アルトーの言及を基にしたドゥルーズ=ガタリの定義。ちなみにアルトーは統合失調症患者としてラカンに診察を受けていた。
※4: 欲望を無限に生産する「機械」と対になる「器官なき身体」は、自己の定義に於いて無限であることが全てを包括する為に属性的な定義が出来ない、つまり未分化である状態を指す。ちなみに『アンチ・オイディプス』はエディプス複合のような定義を性急に齎したフロイティズムへの反論でもある。
※5: ここでのポストインダストリアルに関しては、構造主義のポストモダンに呼応する言い回しと考えてよい。
※6: strates. ドゥルーズ=ガタリは物理的な対象、概念的な対象、知的活動といった様々な対象のそれぞれをカテゴライズして「地層」と表現した。一対一の内容と表現を持つ「文節」で成り立つ地層は上下左右様々なリレーションでつながり、対象や状況によってそれらの相対性は異なる、という、全く以て抽象的な諸般の関係性を取り敢えずヴィジュアル化して説明し易くするあれ。大きくは物理化学的な領域、有機的な領域、人間的形態の領域の三つに分けて捉えられる。
※7: deterritorialization. それまで概念、観念、権力、資本といった社会通念的に一般化されていた対象(システム)がそれ自身から開放(逃走)されている段階を脱領土化という。1968年フランスの五月危機と反資本主義としてのマルキシズムとを引き合いに出した『アンチ・オイディプス』の方が喩えとしては比較的判り易いかと思う。領土化-脱領土化-再領土化(≒脱領土化で新たなコード群を獲得してシステムが更新された状況)の相対的な三竦みの関係性を以て展開される、という如何にも構造主義的な概念。
※8: ligne de fuite. 概念構造を微細な構造単位にまで(モル状に、とよく表現している)分析・分解し尽していく際にその本質が漏出していくような現象の軌跡を逃走線という。或る概念構造が単純に固着・定義されているのは只の一面であって本来的には多面性を有する、その固着されたものの本質が分解されることで他の抑圧されている多面的な別の概念を表出させ結び付き得る、とぼんやり捉えれば多分良い。ほんと面倒臭え表現だな。
※9: ただの苦し紛れな勝手訳なので再引用はしないように。
※10: シーナン・レオン。『Leichenschrei』でゲストヴォーカルとして参加、『Machine Age Voodoo』でヴォーカルとしてSPKに正式参加。後にグレアム・レヴェルと結婚する。
※11: 本作のリリースは1986年なので44.1kHzステレオサンプリングに対応したSeries IIIが既に使用可能な環境であったが、$30,000という言及とサンプリング音色の粗さからするとSPKが使用したのはSeries IIと思われる(30.2kHz/8bit/mono)。Fairlight CMIを使用した当時の代表的な作品は、Art Of Noise『Who's Afraid of the Art of Noise?』、Peter Gabriel『IV』、坂本龍一『FIELD WORK』。また原文では「the first sampler/sequencer」と書いてあるが、両方の機能を載せた楽器は厳密に言えばE-mu Emulator I(後期型)が最初になる。
※12: 現在のイスタンブール。ビザンティウムは紀元前三世紀頃に黒海貿易及び東方文化の中継都市として繁栄していた。
※13: coupure épistémologique. 認識論的切断とは、主観や社会通念のようなイデオロギー的障害を排除し、純粋な科学的認識を以て科学的概念に到達することを言う。原文では「Bachelard/Foucault」となっているが、認識論的切断の系譜として捉えるとアルチュセールが抜けている。
※14: 文化的背景を必要とする為に他の言語による意図の伝達や直訳が難しい語を文化的レファレンスと言う。例えば諺など。
※15: 所謂欧米列強の紛争が各地で発生していた19世紀後半の世相を、当時パスツールによって明らかになった微生物の自然発生説の否定=病原菌伝染のロジックに喩えていると思われる。

 

 

 

 

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