年末年始の最中に観てみた。
『屍者の帝国』はアニメ映画としての脚本、展開、演出であり、それ自体としては作品として優秀だと思う。クオリティの高い立派な作品である。あくまで本作の本質は原作にしか無く、円城塔も伊藤計劃も一定の理解を示しつつもこれが想定していた世界かと問われれば違うと答えるだろう、と想像する内容とは言える。ワトソン博士とフライデーの関係性に関しては伊藤計劃が想定するであろう方向性の一つに寄せたのではないかと考える。フライデーのBL感とバーナビーのキャラのぶれなさは支持する。
三点指摘するとしたら、スチームパンクSFガジェットとして大いに着目すべきネクロウェアとヴィクターの手記が何だかよく判らない超常的なキーアイテム程度にしかなっていなかったこと(アニメ映画としては珍しく120分近くの尺があるのにだ)、ハダリーの存在を実現するエジソンのオーバーテクノロジーが屍者技術の双璧として立ち上がるべき圧倒的な脅威である筈なのに華麗にスルーされていることだった。それらの効果に因り随分と間が抜けた印象はあった。あと一点に関しては、終盤の山場の多さに比例する意識途絶の多さに笑いを誘われた訳だが、これについてはもう個人の嗜好の問題であろうとしか言えない気がした。
一方、『ハーモニー』は原作の映像化に努めた内容になっていた。その儘なので、後はSFとしての世界観の好みの問題しか残らないだろうと思われる。人為的な意識の消失に因るディストピアの完成の瞬間は最も仔細に描かなければ如何無いシークエンスではあるが、本来随所に仕込まなければ然るべきメタ視の装置として生きないetmlの記述をごっそり抜いてしまっていたことで、例え描写したとしても表現として結実した瞬間にはならなかっただろう。国内産の映像がどうもああいうぼんやりした結末の表現をやたら好む傾向があるっぽいので(映像を余り観ない質なので反論は大いに受け付ける)、何かこれはもうそれを好まない自分の嗜好が根本的に世間ずれしているのだろうとしか言えない気がした。その代替としてかは知らないが、世界各所の無生物的な自然の描写を介しての人間世界の静止表現があり、これはスケールの伝達としてとても良かった。総体として正しい映像化だったと思っている。
作家個人にとって執筆上の重要な一要素であったNINの痕跡が螺旋と大災禍といった用語以外に無いのは、まあ仕方がないのだろう。