BAD WITCH / NINE INCH NAILS
凡そ7~8ヶ月、という当初の発言だったが結局1年近く経過してから漸くリリースされた、EP三部作の最後『BAD WITCH』。主な理由としては、EPとして扱うと音楽ストリーミングサービスの大半でシングルとして扱われてしまい他の収録曲が埋もれてしまうので、フルアルバムと同様の扱いでプロモートを行いたかった、との意図があったそうだ。その所為もあってか、久々に作られた日本盤では、EP三部作を明確に言及しながら「ニュー・アルバム」という矛盾した明記がされている(付属の対訳は文節の誤りや省略が多くアテにならないが、紙ジャケットを国内向け仕様で作っているところはコレクターとして大いに褒めたい)。
多くの古くからのファンなら同じ印象を抱いたかと思うが、ここ数年のNIN作品の中でも『BAD WITCH』はかなり内省的且つアグレッシヴな仕上がりになっている。ロックの衝動を抽出すべくシンプルにした、という発言はあったが、「Branches/Bones」と同系列の「Shit Mirror」(実はSuicideみたいな8ビートが好みなのは充分判った)、ライヴ仕様の「Starfuckers, inc.」を下敷きにしたような「Ahead Of Ourselves」の2曲が非常にライヴ映えするように出来ている程度で、全体的には意外とクセがあり、大分手の込んだ作りをしていることが判る。
最もシンプルに聞こえる「Ahead Of Ourselves」ですら、打ち込みドラムの1ループ目と2ループ目とで(それぞれ8小節)わざわざハイハットを細かく変えているし、「Shit Mirror」にしても、ヴォーカルを含む殆どのトラックをそれぞれ異なる質感で歪ませ、その結果シューゲイザーのようにドラムがミックス時の軸とされず他トラックと同列に配置させているというぐらい細やかにミックスされている。
インストトラックの「Play The Goddamned Part」「I'm Not From This World」では、フィールドレコーディングで採取したような音もふんだんに盛り込んでいる(椀型の陶器を地面に擦ったような音の正体が何なのか知りたい)。そのまま使ってしまうとEinstürzende Neubautenになりかねない訳だが、この辺りもテクスチャーに引っ張られずしっかり加工している点では、Coilの影響下にあった『the downward spiral』当時のやたら込み入ったサンプルの応酬を彷彿とさせる。インダストリアル感があると今作を捉えた人々はこの箇所にそれを感じたのだろうと思われる。
生楽器に対しても例外では無く、テナーサックスのアンサンブルに対する音処理については流石NINの真骨頂と言える徹底した姿勢が窺える。「Play The Goddamned Part」では非常に甘めに歪ませ、「God Break Down The Door」ではファズを噛ませたギターフィードバックを重ねたり、過剰なテープエコーで被せたりする対比も面白い。「Down And Out」ではかなりウェットなリバーブで遠方に飛ばした上で歪ませ、ノイズドローンのように使っている。
空間系を通してから甘めに歪ませる手法は近年頻繁にやるサウンドプロダクションの一環ではあるものの、全体的に、より繊細に空間系の配置を施して音の壁ならぬ音の層を作り出している節があり、前二作のEPよりも遥かに手を掛けているなと感じられる。特に、本作の場合はあくまで特定トラックの厚み付けや色付け程度の控えめな使い方ではあるが、テープエコーでリピートタイムを諄くして歪ませる手法と言えばダブであり、ベースリフに着目してみると実に半数の楽曲がダブ臭いフレージングになっていることが判る。曾てエイドリアン・シャーウッドやビル・ラズウェルがダブの視点でNINの楽曲をリミックスしたことはあったが、NIN自身でここまでダブを援用したのは初なので、サウンド面ではこの点によく注目すべきだ。
記述の面からは、確かに三部作としての結論が提示されている。前二作に関してはPhysical Componentの方に追加されている記述が多数含まれるので、より良い理解の為にはそちらも併せて確認した方が良いとは言えるが、要約すればそれぞれのタイトル通りなので特に捻った表現をしている訳では無く、作中でも似たような幾つかのキーセンテンスを繰り返し提示しているのが簡単に見て取れる。
『NOT THE ACTUAL EVENTS』では現実の出来事や他者に対する自己の名状し難い齟齬を、『ADD VIOLENCE』では「Less Than」で示されるような仮想現実的な状況にあるという認識補正、或いは増々以て自分は自分では無いという強い離人感から導き出される仮想自我(そもそも端的に事象や情動をパラメータとしたアートワークが最も直截に示している。SIMULATIONがONでENGAGEはOFFだ)の訴求を、そして『BAD WITCH』では、自身や身体の物理性及び論理性から一歩飛躍しての「I'm not from this world」という俯瞰へと帰着する。
自己を取り巻く現実は本来の現実そのものなのか、という着想は、実は『WITH TEETH』(what if everything around you isn't quite as it seems)以降断続的に浮上している。『year zero』は言う迄も無く作品全体がその思想で彩られているし、一見全く無関係に見えるインスト集『GHOSTS I-IV』でも、コンセプトは白昼夢だと提示されている。そして今回の三部作だ。「Less Than」のPVではThe Presenceが敵オブジェクトとして登場し、「This Isn't The Place」のPVではCedocoreの薬品名が現れる。『year zero』の設定を再び出してくるぐらいには改めて強く訴求する意志を読み取ることが出来る。
今現在の最もまとまった公式見解と受け取れるnin.comでのインタビュー記事では、
「本来の自分は自己破壊好きであり、それが自分の本質であり、幻想であり、自分に与えられた時間だ。喜ばしくはないが語るべきことだ」という点を踏まえて、「人は種としてはアクシデントや突然変異であって、社会的に密結合になるほど自滅する、試験管の中の細菌のようなものだ」と披瀝している。超弦理論も量子力学も否定し、壊れたICチップの挙動だ、とも発言している(ホログラフィック理論は挙がっておらず、『BAD WITCH』アートワークのチップがIntel最初のCPUであるi4004であるのは示唆的かもしれない)。
テクノロジーの進歩に人々が追随しきれていない、言い換えれば今まで目立たなかった衆愚とか馬鹿が表立つようになった現状を「Ahead Of Ourselves」でこうもアイロニカルに示唆するに至ったのは、ある時期を境にインターネット及びSNSとの距離感に見切りを付けたトレントの現在の思想を鑑みれば極自然な成り行きだと思える。それに足して、昨今のVRの動向やAI工学の発展状況から得た逆説的な客観性を踏まえたのが、今回の三部作の契機であろうと思われる。
そして最後に、デヴィッド・ボウイの遺作『Blackstar』の表題曲で成されたアプローチとの類似性だ。海外メディアはおろか個人のレビューでも折に触れて指摘している程度には判りやすい。歌い方も似ている。こんなにヴィブラートを利かせて歌い上げるなんてことは曾て無かった。一聴して否応無く解る箇所だが、敢えて最後に持ってきたことには理由がある。
トレント・レズナーとデヴィッド・ボウイの関係は1995年に遡る。Dissonanceツアーでの、互いのセットリストをクロスフェードさせるような共演(「Subterraneans」でトレントはテナーサックスを吹いている)に始まり、v1以外は全く原形を留めない「I'm Afraid Of Americans」リミックスを手掛け、PV共演も成された。『closure』でもバックステージで遠慮がちに会話するシーンが確認出来る。以後直接の関わりは持たれなかったが、「I'm Afraid Of Americans」は2008年以降屡々セットリストに加わり、ボウイの死後、『Blackstar』の中でも特に示唆的な「I Can't Give Everything Away」を新たに、そして感傷的なカヴァーをしている。
元々ボウイもトレントも漫然と楽曲を掻き集めて作品化することをせず、一つの楽曲に対する物語的な構築、或いはコンセプト前提でアルバムを構築する作家性を第一としている。NINに関してはその源流がボウイとPink Floydにあり、特に作品毎に生み出されたボウイのペルソナや、シアトリカルに展開されるショーとしてのライヴ公演にあると昔から公言している。NINとして仮想的なキャラクターを代理人として立てたことは無いが、『THE FRAGILE』然り、『year zero』然り、音楽的なコンセプト或いは世界観をその当時の自己の出力と絡めて作り上げるケースが多い。
今回、三部作を通じて描かれた物理的身体性の先の立場からの俯瞰は、「Blackstar」の楽曲構造だけに留まらず、ボウイが折に触れてよく演じていた、突如世の中に落ちてきた異邦人の孤独な佇いでもあろうと想像する。翻って、常に先へ歩もうとしていたボウイの意志の継承とも受け取れたりはしないだろうか。
しかし実際のところ、『BAD WITCH』を含めた三部作には意図的な仕掛けが用意されているにも関わらず、『year zero』程ARG(Augumented Reality Game)として系統立って展開されていないことから、物語的な構造の全貌や解答は現在呈示されていない。故に或る意味ではキーセンテンス程度の抽象的な断片を使ってどうにでも解釈出来る自由奔放さと危うさ(勿論これまでつらつら書いてきた内容も対象だ)が残されている。ここまでやって実はこれ以上の展開は無い、なんてことはある筈も無いだろうから、NINの動向や重度のファン連中の調査力を引き続き待たなければならない。リリース後も延々と楽しませてくれそうな気配を感じている。
2018.08.04追記:
「ボウイに関しては付き合いがあったけど、僕は彼の作品を研究して、それを続けてたんだよね。それって『さあ、僕たちはまだ終わっていない。行かなければならない場所がまだある。君がこの世界に必要なんだ』と言われてる感じでね」
https://nme-jp.com/news/58967/
2018.08.09追記:
-各レコードのコンセプトは?
『Not The Actual Event』の場合はこんな感じさ。「今の自分の姿は見せかけに過ぎないのかもしれない。自己責任とはいえ、他人の目に映る俺は正常なふりをしてる元依存症患者だ。自己破壊というファンタジーもろとも焼き尽くしてしまえば、一体何が残るんだろう?」っていうね。音楽的にもマッチしたんだ。
2作目の『Add Violence』のコンセプトはちょっと違う。「自分は無関係なのかもしれない。この世界の本当の姿は、目の前のものとはまったく違うのかもしれない。俺たちは仮想の世界に生きているのかもしれない」っていう感じさ。3作目(『バッド・ウィッチ』)はその方向性をさらに突き進めたものになるはずだった。でも制作を進めるうちに、まるで自分自身の想像力に追い詰められていくかのような感覚に襲われた。そのときに作品のコンセプトがはっきりしたんだ。
(『バッド・ウィッチ』は)頭の中が悲観的思考に支配されてしまった状態を示してる。「自分がかけがえのない存在だなんていうのは錯覚に過ぎない。俺たちは皆、自分自身のデバイスが生み出したアクシデントなんだ。俺たちがたどり着いたこの世界では、あらゆる希望はすべて幻影でしかない。破滅への道を自ら突き進む俺たちは、この世界の支配者なんかじゃない。自らを神のような存在と信じる、盲目の動物だ」。そのコンセプトを最も強く反映しているのが「Ahead Of Ourselves」だ。
http://rollingstonejapan.com/articles/detail/28809/1/1/1