シェーンベルクに関しては、ブラームス信奉を端緒とした後期ロマン派の影響が色濃い『浄められた夜(Verklärte Nacht)』や『グレの歌(Gurrelieder)』、十二音技法に突入した頃のピアノ曲集ぐらいしか聴いていなかった。『ペレアスとメリザンド』は最近になって聴いた。俄然クラシックに並々ならぬ面白味と楽曲の妙を感じている現在、晩期に於ける改宗を経て最終的にシェーンベルクが到達した音楽的な地平を知りたくなったので『モーゼとアロン(Moses und Aron)』を拝聴してみた。ソニーからリリースされていたブーレーズ指揮の1974年録音版だ。音楽もさることながら、旧約聖書の『出エジプト記』を題材としたリブレットも非常に興味深いものだった。クラシックの所感は個人的に書く理由が無い筈なのだが、またしても面白く、考えさせられる事柄も多々あったので、勢いで思いの丈を書く。
先ず踏まえておきたい構図と対比
ARON:
Auch du würdest dies Volk lieben, hättest du gesehn, wie es labt, wenn es sehen fühlen, hoffen darf. Kein Volk kann glauben, was es night fühlt.
汝もまた、この民を愛するであろう。もし汝が、彼らがどのように見たり感じたり希望を持って喜ぶかを見たならば。いかなる者も、感じ得ぬものを信じることは出来ないのだ。
MOSES:
Du erschütterst mich nicht! Es muß den Gedanken erfassen! Es lebt nur deshalb!
私を揺さぶるな!彼ら(民)はこの(十戒に示される)思想を汲めなければならない!これがあるからこそ生きられるのだ!
この各々の立場と見解に於ける埋め難い溝が、この楽劇の主軸である。
本編中、モーゼは力強いシュプレヒゲザング(sprechgesang、レチタティーヴォよりも語りに寄った朗唱)、アロンは柔和なレチタティーヴォ・アリオーソ(歌唱寄りの朗唱)に徹している。イスラエルの民と70人の長老は合唱/アリオーソ/レチタティーヴォの間を風見鶏的に行き来する。音楽に於ては音楽的な旋律を伴うアリオーソの方が耳馴染みが良い、言い換えればシュプレヒゲザングは耳馴染みが良くなるような諸音階から最も開放されているという面で、モーゼの立場が如何に難解か、アロンの立場が如何に民へ寄っているか、が伝わる表現方法であろう。
これを踏まえた上で、以降の記述へと続ける。
『モーゼとアロン』から学ぶプロジェクトの失敗事例
一般的な見解として、モーゼとアロンのどちらに視点が寄るかと言えば、矢張りモーゼに軍配は挙がるだろう。モーゼは人間代表として神託を受ける身であり、且つイスラエルの民を先導する重責を担っている。そんな彼にしてみれば、長い時間をかけて神から託宣を受けて教義をようやっと得て下山してきたら、当の人々は金の仔牛を作って祀り、挙げ句五大欲求のリミッターを解除して乱痴気騒ぎに興じている訳である。処女を生贄にするという蛮族振りも如何無く発揮している。それは激怒しても仕方無いだろう。お前達は何をしている、アロンよお前は何故監督しなかったのかと。神の不在に於て人々は斯くも脆弱であるのか、と失望するのも当然ではある。気高い信仰心ありきの立場に於て、そうした心情を抱くのは正しい。
しかし、これはあくまで監督者個人の視点に過ぎない。想像に難く偶像化も不可能な程の唯一神から戒律を授かるから待たれよ、と、成果物(要件定義書)の完成を約束するのは良い。翻ればそれは単なるマイルストーンの提示に過ぎず、何ら具体性の無い口約束程度のものである。モーゼがやるべきであったのは、スケジュールの決定と定期的な経過報告、配下の人々への具体的な作業指示≒戒律のドラフトの呈示とその詳細説明である。下々にしてみれば、放置され続けていたら独自路線で目的へ近付くしか方法が無い。挙げ句、各々の言葉と意志があれば具体的な形象は一切不要だ、と大々的なポリシーを掲げておきながら、己の舌足らずさが災いした挙げ句のあの石版である。PMとしては自分個人の領域以外が全く見通せていない、致命的に駄目なあれだ。
アロンもアロンで、PMたるモーゼ直下のPLでありながら道半ばで匙を投げる。具象化する方が伝わるからという理由でそればかりやってしまう。あろうことか、第二幕の終盤でアロンは非難する。モーゼよお前が今其処に抱えている十戒の石版ですら偶像の一種であろう、と。全く以てその通りであり、恐るべき卓袱台返しである。ひどい。モーゼの口の役割を担った以上、アロンはシナイ山に引き篭もったモーゼを引っぱたいてでも、状況報告と共に戒律の仮枠をもぎ取ってくるべきだったのだ。その過程がしっかりしていれば、PM自体が成果物の本質から致命的にずれていくことも未然に阻止し、モーゼが言葉を失ってがっくり項垂れるオチも回避出来た筈なのだ。
プロジェクトが回らなくなる原因と責任はPMとその下々にあるのか
では、モーゼとアロンの機能不全だけが失敗の要因だったのか、と言えばそうでもない。プロジェクト失敗の根幹は必ず経営陣にも及ぶ。YHWHのテトラグラマトン(神聖四文字)で表され、作中では「想像に難い神/すげえ神(Unvorstellbarer Gott)」と呼ばれる唯一神は、モーゼをPMに、アロンをPLに任命した。各人が最も有能さを発揮するスキルが何であるかを、唯一神はこの時点で全く見誤っていた。とんだ全知全能である。
何故かと言えばこうだ──モーゼは神の威光もあって統率力に長ける故、PMに配置すること自体は問題無い。だが舌足らずなのが問題である。剰え無闇に行間の空気読みを促す思想であるだけで無く、それ故にハイコンテクスト過ぎてちっとも伝わらないディスコミュニケーションの体現ですらある。それならアロンをPLに充ててPMが十全に稼働出来るようにしよう、との考えに至るのは必要充分である。しかしアロンもまた結果的には舌足らずである事実が露呈してしまった。
アロンは一方でPLとして、「自分達には唯一神がついている」という証左をイスラエルの民に端的に知らしめるには何が最短距離で最善なのか、を考慮する仕事を忠実にこなしている。当初の方針とは違えども、七〇人の長老からのアラートを受け、神の業と一目で判る実物を作って提示し、民の意識を神への一方向へはまとめている。ここで着目したいのは、その実物を作って提示する速度だ。本質そのものでは無いが近しく具体的なモックを即座に作れる。その面では非常に優秀なエンジニアであるとも言える。神よりも民寄りの立場故に、民の扱いもよく理解しているし、モーゼへその旨をエスカレしてもいる(そのタイミングは全然良くないのだが)。
こう捉えると、アロンはPLの立場として技術力と判断力をよく行使して、現状自分自身がやれる範囲内で程良く現実的な解決をしていることが判る。エンジニアとしての能力も高い。かたやモーゼは前にも触れた通り、PMのくせして理想論が先行し、上意下達に徹して全体共有の機会すら設けず、プロジェクトの実態を常に把握して効率的な指示を出そうともしない体たらくである。そんな奴を唯一神は何故PMにしたのか、という観点すら発生しかねない。どうしてもモーゼをPMにしなければいけない理由があるのなら、モーゼとアロン(特にモーゼ)の機能不全を招かぬよう、更にその間にPMOを立てることが肝要であった。各人がどのような資質と性格であるか、神は予め知った上でアサインをした筈であろうに。とんだ全知全能である。
経営的な意思決定の遅さはプロジェクトの品質に直接影響する
だが、経営者たる神の最大の失態がその点だとはまだ断定し難い。自分自身の仕事──啓示すべき内容の決定が余りにも遅かった事態にこそ、事の本質があるのだ。悠長に40~50日も十戒の精査に時間をかけていた訳である。この間、待機中の民に福利厚生として食事(マナ)を保証していたことと、約束の地イスラエルへの必達日(これをリリース日として運用フェーズに入る)を絡めていなかったのは、民にとっては本当に不幸中の幸いだった。
とは言え、要件定義が固まらなければプロジェクトが進行する筈も無い。モーゼが舌足らず故に要件を引き出すのに時間がかかった向きもあろうとは思われるが、全知全能のくせして要件をさっさと提示出来ないとは何たることか。
仮に多忙過ぎてモーゼとの案件に充分な時間が取れなかった可能性、または神が全知全能過ぎて、人類(そして舌足らず)たるモーゼとの間で智慧とコミュニケーションの伝達に少なからず支障があり、其処がボトルネックになってしまった、と慮ることは可能ではある。
しかしそうであったのなら、モーゼ一人に絞らず数名を任命するか、先ずモーゼの前に両者の翻訳が可能なインターフェースになり得るCTO乃至CIOの役を立てるべきであった。無限の立場から有限の立場へ展開するに於いて必然的に発生する、全知全能の集約という最上位の巨大なボトルネックを避ける為にも。人間の言語を介する特質とその限界、翻ればUnvorstellbarer Gottとの決定的な相違は既にモーゼとの間で炙り出されているのだから。
詰まるところ、プロジェクトに対する神自身のマネジメントの根幹に問題があるとの指摘に収斂されてしまう訳だ。タスク分散の概念を持たない経営者は往々にして居るものなのだ。神託を授ける行為自体に莫大なコストがかかる故に一名に絞らざるを得なかったとしても、実現したい規模と予算を見合うようにするとか、その神託システムの高可用性の整備をするとかいった根本的問題を最初に検討し、解決を図るべきであったと言える。矢張りとんだ全知全能である。
実は『出エジプト記』原典を当たると判るのだが、根本的には神がその全知全能を全く以て効率良く行使出来ないことこそが遍く混乱の原因になっている。モーゼとアロンを以てエジプトのパロ王からイスラエルの民を引き剥がすだけでも、第5章から第15章まで、最終的に紅海を割ってパロの軍勢を一挙水没させるまで実に20回近くもしくじっている。王とは言えたかが人間相手にだ。俺だけがREAL、と散々表明しておきながら、全く以てとんだ全知全能である。
但し一点斟酌すべきは、上層部に於ける深謀遠慮は常に短期的なサイクルで捉える下層には畢竟理解されない、と結論付けなかったことだ。プロジェクトは勿論経営でも政治でも、深謀遠慮ありきの推進或いはそう当事者達だけが見做した只の覇権ゲームをやり始め、上層下層の循環系を断絶すると必ず腐敗する。テトラグラマトンで表現される唯一存在は見放さず、実に忍耐強く付き合い続けたのだ。これだけは正確且つ正当に捉えなければならない。
肝心の音楽はよ
音楽の話をしろよ、と此処まで書いてからふと思ったので本題に戻ることにする。余りにも代表的な関係者達がぐずぐず過ぎて、いやあーそりゃ失敗もするだろうよ……と突っ込む以外の選択肢が無く、音楽よりも先ずそちらが面白過ぎて盛り上がってしまった。言っておくがこれはシェーンベルクが悪い訳では無く、下地となっている旧約聖書の『出エジプト記』が元凶である。シェーンベルク自身、宗教的な観点で程良く解決するようなリブレットを散々考えた末、原典を曲げざるを得なくなる矛盾した結論しか出せなくなってしまったのだから。
本作の結論となるべき第三幕についてはリブレットだけが先行して完成していた。一年程度で完成させられる目論見は当初あったようで、実際に作曲しようと試みられもしたが、最終的には音楽は大枠すらも完成されなかった。第二幕までで完結するか、或いは第三幕は音楽が無いものとしてただリブレット通りに語られるでも良い、とシェーンベルク自身が認めていた。
ところでこの楽劇は、徹頭徹尾不穏な音楽で彩られている。これは物語上の解決し難い問題を鑑みてそう響くよう意識されたというよりも、十二音技法且つ単一の音列だけで全編を作り上げていることに由来している。本作に於ける音列はこちらにある通り、合計12音となる4つのトリコルド(3つの音程の組み合わせ。十二音技法なのでトライアド等和声法に準拠する調性は意識しない)と二つの変型をベースに、原則的にはこれらのトリコルドの順で音程を使いつつ、基本音列の上下左右反転、移高、フーガ的なずらしでヴァリエーションを組んでいる。十二音技法がそういうものだとは言え、約100分のスコアをそれだけで構成するとかなんだその異様な作曲能力は。
それでも十二音技法の原則で縛りに縛って作り上げた全盛期の『ピアノ組曲』のような無調の極北とまではいかず、シェーンベルク初期の後期ロマン主義的なオーケストレーションが随所に活きている点に於ては、無調の範疇でありながら調性的な地平にも結び付いた、程良い折衷とバランス感覚を得た熟達の作品であるとも言える。例えば第二幕第一場を少し聴く程度でも、その現代的なコードの響きとリズム、各楽器の配置と奏法の妙が成す表情の豊富さ、それらを結び付けるレチタティーヴォの雄弁さが如何に調性的な和を作り出しているかが容易に伝わる筈だ。
しかしそうなると、無調とは何だったのか、折角打ち立てた無調が希薄になってしまうではないか、という矛盾も生じる。若い頃のブーレーズがシェーンベルクの死後に「シェーンベルクは死んだ」=シェーンベルクは自身の十二音技法を活かしきれなかった=全ての半音階の管理だけに留まったが故にメシアン以後のトータルセリエリズムや空間音響を予見し得なかった、という論評を書いた。幾ら何でもそれは勝手な過度の期待の末に訪れた失望に過ぎんだろうとも思いつつ、一方でシェーンベルクの弟子であったヴェーベルンが厳格な運用をしたことに大きな評価を下していたのも或る程度納得は出来る。
シェーンベルクは本作の後、亡命・渡米して作曲の教壇に立っていた。その頃に音楽論文を幾つも書いており(手軽に触れられるのは『シェーンベルク音楽論選』ちくま学芸文庫)、十二音技法に関しては調性の開放を謳うと共に「十二音による作曲という方法の狙いは、わかり易さ以外にはない」などと凡そ意味の判らないことを明言したりもしていた。剰え「(必要な技法を習得していなければ)この技法を用いることによって得られるものは何もない」とまで言い切っている。システマティックな作曲方法という面では逆説的にはその通りなのだろう。調性が開放されたとは言え結局は相当縛りを設けた前提の提供ではある訳だ。しかし注意すべきはバッハやブラームスやマーラーに触れたその他の論文で、それらは一様に楽曲構造とリトミックの分析を経た礼賛に終始し、剰え自分はモーツァルトからの影響が色濃いとまで表明している点にある。詰まる所、十二音技法を楽典の如く徹底的に固めていく心積りは毛頭無く、技法の確立の上で無調に因る自然な調性への接近と折衷は可能か、といった手間のやたらかかる計画がそもそも前提にあったのだと汲んだ方が腑に落ちるだろう。おいお前自身もUnvorstellbarer Gottの七面倒臭さをなぞっていたのかよ、という突っ込みは扠措き、矛盾も解消される。実際、ヴェーベルンの厳格さとは違うのは勿論、ベルクの無調を取り入れた劇的なエモさとも違う均衡意識の結果が本作で表現されているのだから。※但しここで、ではUnvorstellbarer Gottの真意も同様ではないか、というような解釈までは総じてすべきではない。原典はシェーンベルク自身の作品では無い。
……そのような、十二音技法の一つの音列で二幕分ある楽劇を作りきった状態への対比として、無調でも調性でも無い、無音で終始する第三幕、という構図も非常に音楽的で良いのではないか、と私は感じる。仮に私が作曲者であったら、例えばアロンの開放から絶命の間だけを無音にするといった構成を考える訳だが、そんな野暮をせず、第三幕全てに音楽を当てないことを良しとした判断が結果的には至上に繋がったのだろう。
それに、第三幕のリブレットは原典には無い独自の解釈であり、アロンに対する断罪に終始している。若しアロンに対する断罪で真の終幕を迎えるとすれば、これは金の仔牛を作り上げるアロンの所業や思想と同義になってしまい、ひいては楽劇として音楽を与えるというシェーンベルクの作曲活動そのものが一種の偶像を作り出す行為と重なる、といった構図も一考慮として挟まなければ如何無くなる。シェーンベルク自身が余りに実直過ぎてそれに思い当たってしまい、且つ超克する手段に到達出来なかった故のスコアの不在であったとは充分に想像し得る。
それでも尚、これはこれで間違い無く完成されている状態であると私は考える。未完とされている本作ではあるが、とんでもない、これはその逡巡も含まれた故に成立した、完成された作品だ。
音源に関する幾つかの事柄としては、ブーレーズ&BBCSO版は1974年にWest Ham Central Mission(現Memorial Community Church Plaistow)で収録されたもので、オケも歌も広めの教会独特のリヴァーブに馴染んだ音になっている。それ故の音の輪郭を空間の臨場感と踏まえるか、細部のオーケストレーションが不明瞭になってしまった棘の無い音と受け取るかは好みに依る。十二音技法で成り立つ音楽が屡々全面に導出する辛辣さを和らげ、最後まで音楽に対してフラットに鑑賞し得る点に於てブーレーズ版は優秀であると言えるが、若し後者の立場を取るのであれば、ブーレーズ版と同年に収録されたミヒャエル・ギーレン&ORF版を選ぶと良い。
どちらもモーゼ役のバリトンはギュンター・ライヒであるが、指揮者に依る解釈の相違をそのまま体現しているので、その面でも興味深く比較出来るだろう。それは言う迄も無く、最後の「O Wort, du Wort, das mir fehlt!(おお言葉よ、汝たる言葉よ、我に欠けたるもの!)」に集約されている。
2009年にドイツで上演された全編(DVDでのリリースあり)。第2幕情景3以降、「Blutopfer!」から堰を切る生贄の宴からのモーゼとアロンとの熾烈な論争(平易に表現すれば「なんだよこれはお前」「いやお前がちゃんとしてないからだろ」という言い争いではあるが)に於ける凄まじい熱量がそのまま演技演出として表れていて素晴らしいので一度見てみる価値あり。
楽譜付。死後71年経過してはいるのでPD化した認識でも良さそうだが、PD扱いの楽譜をまだ見たことがない。